日本、韓国、ロシアにルーツを持つライターの伊藤チタさんは、自身が育った環境に幼少期から圧倒的な居心地の悪さと憤りを感じていたという。
<「女性に人権なんてないよ」…在日コリアン3世が告白する、祖母がぼくに放った「性差別」の衝撃>で著したとおり、チタさん親族たちは在日コリアンへのヘイトはもちろん、ほかの人種差別に対しても我が事のように怒りをあらわにするものの、母や叔母など配偶者の女性たちに対しては「女性に人権なんてないよ」という考えが平然とまかり通る。
しかし、男性親族たちが女性たちを「家の道具」とみなし見下す一方で、物腰の柔らかい親族の若年男性には「気が弱い」と苦言を呈し、大学受験が失敗すれば「情けない」と叱咤する場面に幾度となく遭遇した。
彼ら親族の男性らもチタさんの一家に内包されたセクシズムの利益を享受しながら、一方的に押し付けられる「男らしさ」に苦しんでいたことに気が付く。
祖母がぼくたちに押し付けた「苛立ち」
幼いころから感じていた漠然とした違和感や理不尽を言語化できるようになるにつれ、忌避感は強まっていった。
ジェンダー・ロールを固定化しなければ生き残れなかった上の世代の境遇は、わからなくもない。「男が外で働き、女が家を守る」。そういった価値観がかつては一般的であり、なおかつ女性の社会進出も進んでいなかった時代。そういう時代に「在日コリアン」として生き抜かねばならなかった祖父母らの苦労は、計り知れない。
祖父は1945年ごろ、貧困に喘ぐ家族を養うために日本に残留した親族を頼って入国をした。祖母は物心つくころにはすでに日本で生活していたらしく、来日した経緯は不明だ。つまり2人は、母国が日本の支配下にあった年代に生まれ育った。
祖父母が結婚し子を儲けたのは1950年代。朝鮮半島が日本の植民地支配からようやっと解放された直後、朝鮮戦争が勃発したころである。
在日コリアンおよび朝鮮人に対する激しい嫌悪が渦巻いていた当時の状況を考えると、日本で差別に抗い命を繋いでいくために、過剰なほど家父長制を強化せねばならなかったのかもしれない。
つまり祖母は、マイノリティのなかのマイノリティとして生きることを強いられていた時代の“女性”だ。日本社会のなかでは在日コリアンとして排斥され、在日コリアン社会のなかでは“女性”として服従させられる。どこまで行っても弱者である自らの立場に辟易していたことは、想像に難くない。
でも、だったらなぜ、祖母はミソジニーを内面化してし、それを“嫁”やぼくたちに押し付けてしまったのだろう。
ここからはぼくの想像でしかないが、もしかすると祖母は若い世代の“女性”に対し嫉妬のような感情を抱いていたのかもしれない。祖母にとってその最たる身近な“女性”のぼくは、従兄弟たちと対等に喧嘩をし、同じように教育を受けていた。
つづき
https://gendai.media/articles/-/147622