韓ネタ
韓国・朝鮮人、日本人をはじめあらゆる民族の人々が共に“祭”に参加することを通して、それぞれの自己解放と真の交流の場を作ろうという「東九条マダン」が絶好の晴天のもと、今年も盛大に開催されました(11月3日)。
26回目の今回は、初めて在日コリアンの集住地・東九条(京都市南区)を離れて、北に隣接する被差別部落・七条(崇仁地区=同下京区)に会場を移しての試み。これまで必ずしも関係良好とはいえなかった朝鮮人と部落民衆とが新たな共生・連帯を模索した画期的な企画で、今後につながる大きな成果を生みだしたものと筆者の目には映りました。
両地区の関係史に詳しい歴史家の前川修さん(地域福祉センター「希望の家」所長)によると、明治期以降、土地所有を認められた七条部落の人々が、人口増のゆえに、畑ばかりだった東九条地域に進出、その後を追うようにして、植民地支配のもとで自発的・非自発的に朝鮮半島から渡日した人々がその周辺に居住することになったということです。「全国的にみても被差別部落の周辺に在日の集落ができた事例は多く、日本人の多数派が偏見のゆえに住まない場所に朝鮮人が集住せざるをえなかった」と。
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一般に、先住者の来住者に対する視線には厳しいものがあるものです。ユダヤ系ドイツ人社会学者G・ジンメルが、(集団内の人々は)「今日訪れて明日去りゆく放浪者」には寛容であっても、「今日訪れて明日もとどまる余所(よそ)者」には厳格であると述べたとおりです(居安正訳『社会学』下巻、白水社、285ページ)。むろん、七条部落の民衆と東九条の朝鮮人との間には、こうした社会心理学的な違和感のみならず、たとえば、戦争直後の闇商売における競合関係といった物質的な対立構造も具体的に伏在していたようです。しかし、それでも、前川さんによれば、両者は「反発しつつも共生していた」のです。類似の状況、すなわち部落差別と朝鮮人差別の内容は異なるにしても、両者とも差別され、その差別がもたらす困窮には共通性があるという、そのような類似の状況のなかで、反発しつつも共生し、時には支えあう関係をも構築していました。
複雑で問題含みだったにしても、ともかくも成立していた一定の共生関係に決定的な分断の楔(くさび)を撃ち込んだのが同和対策事業特別措置法(1969〜2002年)に基づく同和対策事業だったと前川さんは指摘します。「行政は、住民の類似的な生活状況を無視して、同和対策とスラム対策とに分け、前者に対してのみ施策を行なった」と。実際、当時の行政文書にも、「同和地区に伝わる伝統風俗習慣や文化遺産というべきものの数々は、かつてスラムに生れたことはなかったし、今後も生まれ出ることは非常に困難」などと極端に差別的な記載が見られます(「東九条地区社会福祉パイロットプラン」1971年)。同対事業によって七条部落は住宅などの環境改善や就職指導など相当手厚く処遇されましたが、東九条はその後も長く放置されたのです。結果的に、両地区の住民の間に境界線が設置されたことになり、住民間の“違い”が人為的・行政的に作られたことになります。「非常に皮肉なことに、同和対策の法律がなくなったおかげで、両地区の住民がお互いに平等に、東九条マダンを含めて、さまざまな課題に取り組めるようになった」と前川さん。
東九条マダン実行委員長の梁説(ヤンソル)さんも、前川さんと同様、同対事業による両地区の分断による悲劇を重視します。同対事業の進捗(しんちょく)に対する東九条住民の被剥奪感と羨望(せんぼう)。梁さんは「これは単なる“ねたみ”ではなく、理不尽な行政に対する正当な感覚だったと思う」と。「しかし、だからこそ、かつて両地区が外部から偏見の目で見られながらも互いに独自の生活と文化を作り上げてきた歴史に誇りをもって、改めて再会し、再度、顔のみえる関係でつながり合いたいと念じてマダンを七条部落で開催することにした」
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筆者がこの両地区を訪れるたびに感じることは、東九条の活気と七条の沈滞です。筆者の学生時代、七条部落の人口は1万人に達していましたが、今はその10分の1、しかも65歳以上人口が6割を超え、団地生活の人間関係も非常に希薄です。その点でも、東九条マダンの七条での開催は七条地域の活性化の大きな原動力になるはず。5年後には京都市立芸術大が七条地区に移転してくるので、大学を核にした七条と東九条との文化的共生・連帯が新しい次元に進むことを期待できます。かつて部落解放運動は「被差別統一戦線」や「反差別共同闘争」などのスローガンを掲げていましたが、常に部落問題が中心で、その他の差別問題は“添え物”扱いでした。
(続きはソース)
2018年11月17日
https://mainichi.jp/articles/20181117/ddl/k26/070/485000c?inb=ra